2024.3.1。
それは僕にとって特別な日になった。おそらくこの先食べ物の賞味期限が3月1日だったり、夜中に時計をみて03:01だったりするとこの日のことを思い出してしまうかもしれない。
2024年3月1日、早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)が主催で、「村上春樹×川上未映子 春のみみずく朗読会」が実現した。これは2019年12月17日に『みみずくは黄昏に飛びたつ』の文庫化を記念して開催された「村上春樹×川上未映子 冬のみみずく朗読会」に続く第二弾だ。また村上春樹ライブラリーにおける、村上春樹さんの提案による朗読イベント「Authors Alive! ~作家に会おう~」の特別編という位置付けでもある。
僕にとってこの手のイベントは、昨年10月28日に同じく早稲田大学国際文学館共催で開かれた国際シンポジウム 「世界とつながる日本文学 ~after murakami~」以来のことだった。これは翻訳活動を通して村上春樹と親交がある柴田元幸さんをはじめ、村上春樹に影響を受けた各国の作家やその他創作者たちが集う場だったが、このとき村上春樹本人の登壇はなかった。
10月28日に行われた国際シンポジウム 「世界とつながる日本文学 ~after murakami~」に参加してきました。村上春樹について、日本文学について面白い話がたくさん聞けたので、その雰囲気を少しでも伝えられればと思いここにその記録を残[…]
僕は村上春樹の作品は全小説何度も繰り返し読むほどの愛読者だが、もちろんこの目で村上春樹を見たことなどなかった。本を通して以外は、村上RADIOで素に近い彼の声を聞いたことがあるくらいだった。あまりメディアやイベントなどで顔を出さないことで知られる村上春樹が朗読会を開催するという知らせを、昨年も年の瀬にツイッター(Xか、やれやれ)で知った。学生は無料、一般は15,000円からの寄付で招待となるそうだ。
15,000円、、、けっして安くはない金額だ。
とにかく一度この目で村上春樹を見てみたい。2~3週間後の申し込み期間まで迷いに迷って、僕は15,000円を村上春樹ライブラリーに寄付する形でこの朗読会の参加資格を得た。すでに御年75歳、そして決して多くないイベント開催の機会。せっかく同時代に生きることができたんだから、一生に一度だと思って会いに行こう。
正直、朗読というイベント自体にはさほど興味がなかった。村上春樹をこの目で見てみようという若干のミーハー心と、インタビュー集『みみずくは黄昏に飛びたつ』で村上春樹から深いところまでコメントを引き出していた川上未映子という存在。作家として世界的にも存在感を示す二人を生で見る、これに15,000円を払うということで自分を納得させた。
そして僕はいつものように本質を見誤る。今回村上春樹をこの目で見れたことは僕の胸を震わすのにじゅうぶんな出来事だったが、それ以上に朗読会というイベント自体に感動してしまった。それはまったく異次元の読書体験だった。
「村上春樹×川上未映子 春のみみずく朗読会」開幕
「村上春樹×川上未映子 春のみみずく朗読会」が開催されたのは早稲田大学の大隈講堂である。開演の一時間前には着席し(なんと幸運にも前から数える方がはるかに早い席順)、そわそわしながら何をするでもなくその時を待っていた。食欲を感じないほど緊張していた僕は、それでも朗読中にお腹など鳴らないようにウイダーゼリーを胃に流し込んだ(飲食禁止だったが、それくらいは水分補給の延長だと思って)。いつもと違う味がしたのは気のせいかもしれないし、緊張によるものなのかもしれない。
18時30分、オープニングとして早稲田大学国際文学館館長の十重田裕一さんの挨拶から始まった。なんとのっけから衝撃的なニュースが二つほど告げられる。一つは、村上春樹、川上未映子共に世に出していない新作の朗読を行うこと。二つ目は、ゲストとして俳優の小澤征悦さんとギタリストの村治佳織さんも登場するということ。
そしてそんな朗報を聞かされて間もなく、村上春樹と川上未映子が壇上に現れる。二人のちょっとしたトークから始まったわけだが、特に村上さん(この時この目で見たときから「村上春樹」から「村上さん」と呼ぶのがしっくりくるような気がしている)はどこか落ち着かないような、ちょっと気恥ずかしそうな面持ちだった。僕は「小説を書いているとき以外は、ごく普通の人間です」とどこかで語っていた村上さんの言葉を思い出した。ちなみにこの新作を朗読することになったのは川上さんの「せっかくだから何か新しいことをしましょう」という提案からだったという。こんなこと村上春樹に言えて、承諾させるなんて川上さんだからできたんだろうなあ。
川上未映子による朗読「青かける青」
朗読はこの会通して七つのパートに分けて行われた。まずは川上さんによる自作「青かける青」(『春のこわいもの』収録)の朗読から始まった。朗読というものに慣れておらず、普段はめっぽう視覚で文字を追うことに慣れている僕は、初めのうちあまりうまく作品に入り込むことができなかった。正直、本で読んだときと比べて理解できたのは6~7割がいいところだろう。しかしところどころあるコロナ禍における川上さんのメッセージは、そんな集中力を欠いている僕の心にも刺さった。ああそうだ、あのときは僕もこんなふうに孤独を感じ、奇妙な時間の流れ方を経験してきたんだ。そして朗読の最後の箇所は、川上さんは原稿から目を離し、上を向いて切実に観客に訴えかけるように物語を読んだ。
このとき僕は川上さんの朗読に必死に食らいつきながらも、背後に座る村上さんを見ないわけにはいかなかった。集中して朗読を聞いているようで、次が出番である自らの原稿に集中しているようにも見えた。そして川上さんと交代するタイミングでも、早く朗読を始めたいかのように落ち着かない村上さんの様子がととても印象的だった。
ここで一人目のゲストである村治佳織さんが登場する。過去にも村上さんの朗読イベントで共演していることを知っていたが、今回のビートルズの「イエスタデイ」や「ミシェル」などの演奏も圧巻だった。
村上春樹による新作短編小説の朗読「夏帆」
そしていよいよ村上春樹による朗読が始まる。読むのは十日ほど前にできたばかりの新作短編で、それを朗読用に短くしたものらしい。タイトルは「夏帆」(内容については口外禁止ということだったが、タイトルは各メディアがすでに公開しているのでここでもそこまでは)、内容について触れるのは控えます。
僕は一言一句聞き逃さないために、英語のリスニングの試験に挑むような前のめりな姿勢で、彼の声に集中した。今回は登場人物の描写から物語の流れまではっきりと追うことができた。これは何も川上さんの朗読に問題があって村上さんが特別上手いという話ではない。朗読に不慣れな僕が、徐々に場の空気と朗読というものに適応しつつあっただけだと思う。
内容が興味深かったのはもちろんそうだが、途中で水分補給をするコップや読んでいる原稿を持つ手が小刻みに震えていたあの情景が、とにかく印象的で今も決定的に僕の胸に焼き付いている。年によるものなのか、緊張によるものなのか、緊迫によるものなのか。それはわからない。
小澤征悦による朗読『ヘブン』『風の歌を聴け』
短い休憩を挟み、二人目のゲストである小澤征悦さんも登場した。軽快な小澤さんのトークは会場の空気を和ませ、これまでとは違った雰囲気がそこに出来上がった。まず小澤さんは川上さんの代表作『ヘブン』から一部を抜粋して朗読した。立ちながら舞台の稽古をしているかのように朗読した。僕は素直に「とても聞きやすい声だな」と思った。川上さんや村上さんは小説家として自作を読み上げる迫力のようなものがあったが、俳優を生業にしている小澤さんの朗読はとても心地よいものだった。小澤さんによる朗読の二作品には、村治佳織さんによる優しいギターの演奏が添えられていて、どうしてこんなにも物語と音楽がマッチするんだろうと不思議でならなかった。
続けて小澤さんは村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』を、今度は椅子に座って朗読した。僕は何回も読み返した小説で、長編とはいえ短めの作品なので内容は隅から隅まで把握しているつもりだった。しかし小澤さんの朗読で『風の歌を聴け』を聴いているときに感じたのは、「あれこんな作品だったっけ?」ということだった。もちろんこれは良い意味である。自分で本で読んでいたときと、この朗読を聴いていたときに、頭の中を流れる映像が違うのだ。小澤征悦さんによる「僕」と「鼠」の会話は、僕に、そしておそらくはこの会場の多くの人に違った景色を見せてくれたことだろう。
この後川上さんは朗読を聴くと「他の小説みたい」と言っていたが、まさにそれが朗読の醍醐味なのだろうと思った。
川上未映子による新作短編小説の朗読「わたしたちのドア」
五つ目の朗読は再び川上さんによる新作書き下ろしの作品、タイトルは「わたしたちのドア」。この頃には僕には朗読がむしろ気持ち良い体験になっていて、内容も身体に浸透するように理解することができた。内容に触れることはできないが、この作品もまた個人的に心の底どこかで結びついているような共感を抱くようなものだった。はあ、編集者の手にも渡っていないであろう生まれたての作品を朗読で聴けるなんて、なんて贅沢なひとときなんだろう。
そしてメインセクション最後の朗読は、先ほど読んだ村上さんによる新作の後半パートだった。内容に関するちょっとした笑いを挟んだ後、最後の朗読が始まった。僕はちょうどよい空調だったにもかかわらず、シャツを腕まくりし、再び前傾姿勢で聞き入った。とても貴重な体験だった。村上春樹の肉声で朗読を聴いたことは、間違いなく今後の読書体験にも影響を与えてくれるだろう。
朗読の持つ力 – 五感で小説を味わうことについて
今回の朗読会には司会がいなかった。それは川上さんが何度か口にした「この会を親密なものにしたかった」という理由だ。小澤さんが場のゆるい空気を作り上げ、最後の四人でのクロストークでは、村上さんにも子どものような笑顔が見られた。先日亡くなった小澤征爾さんに対して、『小澤征爾さんと、音楽について話をする』というインタビュー集を出すほどに親交や尊敬があった村上さんと、小澤征爾さんを父に持つ征悦さんの会話はどこか聴いていて微笑ましいものだった。
ちなみに小澤征悦さんは、これ以前に村上春樹の『職業としての小説家』のオーディブルの朗読を担当している。今回の朗読に感銘を受けた僕は、すぐにオーディブルでこの本を聴いた。欲を言えば小澤さんには村上春樹の小説を朗読してほしいが、このようなエッセイでもじゅうぶんに魅力は伝わるだろう。またオーディブルで村上作品を読破し直すのも悪くないと思っている。無料でも聴けるので、小説を朗読で聴くってどんなだろう?と思った方はぜひお試しを。
また今回朗読された作品もここに載せておきます。
▽川上未映子自身によって朗読された「青かける青」収録の『春のこわいもの』▽
▽小澤征悦さんによって朗読された川上未映子『ヘブン』▽
▽小澤征悦さんによって朗読された村上春樹『風の歌を聴け』▽
『ノルウェイの森』未映子からの手紙
最後に川上さんから素敵なプレゼントがあった。ギフトリーディングとして『ノルウェイの森』から、直子からワタナベくんへの手紙を朗読してくれたのだ。こんなに心温まる朗読があるだろうか。直子(未映子)からの手紙はここまでの朗読を優しく包み込み、そして僕は大事な思い出をていねいに持ち帰ることができたのだった。
今回の「村上春樹×川上未映子 春のみみずく朗読会」を経験して、僕はまず思った。15,000円でくよくよ悩んでいたのはなんだったのだろう。
村上春樹、川上未映子を生で見る、という当初の目的を超えて、しっかりと朗読会自体を楽しむことができた。僕は文字通り五感総動員で朗読を味わった。開演前に急いで胃に流し込んだウイダーゼリーのなんとも言えないあの味、この目で見た村上春樹という人間像、登場と同時に客席まで漂ってきた川上未映子の香水の匂い、生きた小説の朗読。
そしてもう一つ。どう聴いていいかわからなかった朗読をそれでも全身で受け止めようとしたあの感覚。身体に染み込んでくることばたち。そう、僕は小説を皮膚で聴いていたんだ。
朗読会前に訪れた村上春樹ライブラリーでの安西水丸展でのグッズもたくさんゲットしました。
▽ツイッターもやっているので、ぜひフォローをお願いします。▽
https://twitter.com/asudoku_reading/status/1763544158520934402
以下に村上春樹関連の記事を並べておくので、もし興味がある方はそちらもご覧ください。
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