今なお人気を博すアメリカ人作家J・D・サリンジャーですが、全部でどのくらいの作品があり、どの順番で読めばいいのかというのは意外と知らない方もいるかもしれません。
実はサリンジャーが残した作品は多くありません。しかし作品を読むべき順番は人によって異なると思います。また1冊目に読むのは有名な『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』より最適な一冊があるのではという疑問を提示しています。その理由とどのような軸で読み進めていくとスムーズにサリンジャー作品を楽しめるかというのを解説したいと思います。
サリンジャーが初めてという方はもちろん、いくつか作品は読んだことがあるけど体系的に読んでみたいという方の役にも立てればと思います。
★実はサリンジャーは作品数が少ないので読破しやすい

冒頭でも述べたようにサリンジャーはどちらかといえば寡作な作家で、実際にサリンジャーが出版した本はたったの4冊だけです。しかも長篇小説は有名な『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』のみです。
作品が少ないのは雑誌に作品を発表こそすれどサリンジャー自身が書籍化を拒んだという経緯があります。
しかし実は本国アメリカでは出版が禁止されている作品でも、日本では翻訳され書籍化されているという現実があります(読者としては嬉しいような後ろめたいような)。
作品数でいうと、サリンジャーが発表したのが以下の通りです。
| 発表作品数 | 本国での書籍化 | 日本での書籍化 | |
| 長篇 | 1 | 1 | 1 |
| 中篇 | 5 | 4 | 5 |
| 短篇 | 30 | 9 | 30 |
本国アメリカでは中篇「ハプワース16、1924年」と『ナイン・ストーリーズ』収録の9作品以外の短篇は書籍化されませんでしたが、日本では全てが繰り返し翻訳され書籍化までされています。
★サリンジャー最初の1冊目は『ライ麦畑でつかまえて』という誤解
ではサリンジャーを読もうとするときに、1冊目としてどの作品を選べばよいでしょうか。もちろんまず読むべきはサリンジャーが出版を許した4つの書籍です。
サリンジャーを読んだことがない方でも聞いたことはあるであろう『ライ麦畑でつかまえて』から読み始めるべきでしょうか。日本では長く親しまれた野崎孝訳のタイトル『ライ麦畑でつかまえて』があり、のちに村上春樹によって訳された『キャッチャー・イン・ザ・ライ』があります。サリンジャー唯一の長篇にして、世界的にみても文学史に名を残す作品です。
もちろんこの作品からサリンジャーを読んだという方も多いでしょう。一方で作品の世界観や語り口が唯一無二であるがためにあまりはまらなかった人や、長篇ということで読了できなかったという人も一定数いるのではないでしょうか。
実はサリンジャー入門として『ライ麦畑でつかまえて』より適切な作品が短篇集『ナイン・ストーリーズ』です。
★サリンジャーを読む二つの順番
サリンジャーを読んでいくにあたっておすすめの順番ですが、二つの軸があります。一つは有名な『ライ麦畑でつかまえて』を中心に、その主人公ホールデン関連の作品を読むという流れ(以下「ホールデン軸」)。もう一つが『ナイン・ストーリーズ』収録の「バナナフィッシュにうってつけの日」の主人公で知られるシーモア・グラス関連で読む軸(以下「グラス家軸」)です。
『ライ麦畑でつかまえて』からはじめる「ホールデン軸」よりむしろ、サリンジャーのもう一つの代名詞である短篇集『ナイン・ストーリーズ』から入る「グラス家軸」こそが、特にこの記事で僕がおすすめしたい読み順です。特に最初に収録されている「バナナフィッシュにうってつけの日」から読めば、これだけでサリンジャーの魅力が余すことなく伝わるといっても過言ではないと思っています。
本当は『ナイン・ストーリーズ』収録の9作品全てを読んでほしいと言いたいところですが、まずは「バナナフィッシュにうってつけの日」と、その主人公シーモア・グラスの家族に関連する作品を数珠つなぎで読んでいくのをおすすめします(何度でも言いますが、本当は『ナイン・ストーリーズ』は順番に全部読んでほしいです、、、)。
これはシーモアを中心とする一家の断片的な物語の集積を指して「グラス家サーガ」などと呼ばれたりします。他の作品集『フラニーとズーイ』や『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章―』もシーモアとその兄弟についての物語です。これらのグラス家関連の作品を読み合わせると、一つの長篇小説を読んでいるかの読書体験を味わえます。
ではどのような順番で読むべきか、まずは「グラス家軸」で読む順番を詳しくみていきましょう。
サリンジャーを読む順番①「グラス家軸」

「グラス家軸」①冊目『ナイン・ストーリーズ』
サリンジャー王道にして一冊目に読むべき本は『ナイン・ストーリーズ』で、すべての始まりはグラス家長男であるシーモア・グラスを主人公とした短篇「バナナフィッシュにうってつけの日」です。初読時には謎も多く衝撃的なラストに驚く方も多いかもしれませんが、これこそがサリンジャーの世界への入口といえるでしょう。
『ナイン・ストーリーズ』にはグラス家に関連した短篇が3つ収録されています。
-バナナフィッシュにうってつけの日/A Perfect Day for Bananafish
→長男シーモアが初登場。
-コネティカットのひょこひょこおじさん/Uncle Wiggily in Connecticut
→三男ウォルトの過去への言及あり。
-小舟のほとりで/Down at the Dinghy
→長女ブーブーとその息子ライオネルの物語。
『ナイン・ストーリーズ』はタイトル通り9つの物語で成り立つ作品集で、全て読んでこそサリンジャーを味わえるというものですが、まずは入門編としてグラス家に関連した以上の3つの短篇から読むのがお手軽でよいと思います。
ちなみに今日本語で読める『ナイン・ストーリーズ』には主に、50年以上親しまれている野崎孝訳(新潮文庫)と2009年に出された柴田元幸訳(現在では河出文庫から)の二つの選択肢があります。これだけ時代の差があるとどうしても新しい柴田元幸訳をおすすめしたいところですが、半世紀前に出された野崎孝訳は今読んでもほとんど古さを感じません(ちょっと古めの表現があっても違和感なくむしろ原書の時代に近い雰囲気を感じれるという長所に)。どちらも原文に忠実な部類だと思うので、こればかりはどうしても好みで選ぶのがよいかと。読んだ日によっておすすめしたい訳が変わるほどほんとにどちらもいいのですが、強いて選ぶ基準として特徴を紹介するなら
・野崎孝訳→当時の固有名詞などに注が入っているため「なにこれ?」というつまずきが解消される
・柴田元幸訳→より現代的な訳で読みやすい
余談ですが、サリンジャーは英語自体は難しい部類ではなく、英語学習も兼ねて『ナイン・ストーリーズ』は原書で読むのもアリです。
「グラス家軸」②冊目『フラニーとズーイ』
二冊目におすすめしたいサリンジャー作品が『フラニーとズーイ』です。こちらはグラス家の二人の兄妹を中心とした中篇2つで構成されていて、グラス家純度100%の作品といえます。「バナナフィッシュにうってつけの日」で登場したシーモアなどへの言及もあり、「グラス家物語」の中核を担う作品です。
-フラニー/Franny
→末っ子フラニーの物語。
-ズーイ/Zooey
→五男ズーイを主人公とする「フラニー」の後日譚。
こちらは新潮文庫から村上春樹訳が出ているので、現状この翻訳一択となっています。
「グラス家軸」③冊目『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章―』
「グラス家軸」で読むサリンジャー三冊目は『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章―』です。こちらも『フラニーとズーイ』同様に、2つの中篇で構成される作品です。サリンジャー自身の分身として描かれるグラス家次男バディの視点で語られるシーモアの物語です。「バナナフィッシュにうってつけの日」では謎に包まれていたシーモアについての詳細が明らかになっていきます。
-大工よ、屋根の梁を高く上げよ/Raise High the Roof-Beam, Carpenters
→次男バディ視点でのシーモアの結婚式の話。
-シーモア-序章-/Seymour: An Introduction
→バディによって語られるシーモアについての話。
翻訳は現状1970年の野崎孝・井上謙治訳のみとなりますが、そのうち村上春樹訳か柴田元幸訳が実現するかも、と個人的に期待しています。
⇨『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章―』(野崎孝・井上謙治訳)
「グラス家軸」④冊目『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』
「グラス家軸」で読む最後の作品は「ハプワース16、1924年」です。こちらは「シーモア-序章-」から6年後に発表された中篇で、これを最後にサリンジャーは作品を公表することをやめてしまいます。そして理由はどうあれ、サリンジャーはこの「ハプワース16、1924年」すらも書籍化することを望みませんでした。7歳のシーモアが書いた手紙について語られますが、これを7歳にして語ったシーモアの特異性が感じられる作品です。
本国では書籍化しなかった作品なので、作者の意図に従えば、グラス家を理解する上で本来読むべき作品ではないのかもしれません。しかし日本語で読めてしまうからこそ(しかもかなり新しい訳が登場したばかり)、つい読まずにはいられない「禁断の果実」といえるでしょう。
-ハプワース16、1924年/Hapworth 16, 1924
→バディ視点で7歳のシーモアが書いた手紙の内容が綴られる。
⇨『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』(金原瑞人訳)
以上の4作品(正確には短篇が3つ、中篇が5つ)を読めばサリンジャーの根幹であるグラス家物語を網羅することができます。サリンジャー初心者にとっても入門しやすい読み方でありながら、長年のサリンジャー愛読者にとっても最大の魅力が詰まった作品群です。

さらにいえば、この「グラス家軸」で二周目もするとより深くまでサリンジャー作品を探求することができます(もう一度「バナナフィッシュにうってつけの日」に戻って再読したくなるはずです)。各作品で断片的に情報が散りばめられているので、いろいろなところで点だった情報が線となってつながっていく面白さがあります。
サリンジャーを読む順番②「ホールデン軸」

「ホールデン軸」①冊目『ライ麦畑でつかまえて(キャッチャー・イン・ザ・ライ』
『ナイン・ストーリーズ』をはじめとした「グラス家軸」でサリンジャーを気に入った方は、ぜひ長篇の『ライ麦畑でつかまえて』を読んでほしいと思います。やはりこの作品なしにはサリンジャーは語れません。
物語は、名門校を4度目の退学処分になった16歳の少年ホールデン・コールフィールドが、クリスマス直前のニューヨークを3日間さまよう様子を彼自身の一人称語りという「声」を最大限生かした形で描いていきます。「子どもの純粋さ」と「大人社会の欺瞞」との対立というテーマによって貫かれた長篇です。
『ライ麦畑でつかまえて』はシーモアをはじめとするグラス家の登場人物たちとは一切関係がありません。しかし当然ながら共通するテーマは多くあり、二つの軸で読むことでサリンジャーの価値観がより立体的に把握できます。
こちらも『ナイン・ストーリーズ』同様に主要な翻訳が二つあって悩みどころです。一つは1964年に出された野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』(素晴らしいタイトルですね)、もう一つが2003年の村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』です。これも本当にどちらもそれぞれに魅力があります。やはり新しい『キャッチャー・イン・ザ・ライ』は今の読者にとってはより読みやすいです(野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』も全然読みにくいとか古すぎるというのはないです)が、一方で村上春樹っぽさが出ているという声も聞かれます。個人的には村上春樹っぽさが翻訳に出ていたとしてもそれがこの作品と調和するほど相性は良いと思っています。なのでこちらも実際に自身の手でちょっと読んでみて決めてみてはいかがでしょうか。
「ホールデン軸」②冊目『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』
基本的に『ライ麦畑でつかまえて』はそれ単体で完結しています。しかし『ライ麦畑でつかまえて』以前に発表された5つの短篇の中で関連した作品もあります。以下の5つのうち2つはそのまま『ライ麦畑でつかまえて』の断片のような作品で後に長篇として組み込まれていった部分です。残りの3つは「ホールデン」という名前が出てきたり、彼や兄ヴィンセント(『ライ麦畑でつかまえて』ではD.B.として登場)の運命が記されています。
*以下の収録作品が『ライ麦畑でつかまえて』(キャッチャー・イン・ザ・ライ)』に関連。
-最後の休暇の最後の日/Last Day of the Last Furlough
→主人公ベーブに軍隊の同僚であるヴィンセントの弟が戦闘中行方不明のホールデンという設定。
-このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/This Sandwich Has No Mayonnaise
→ヴィンセント・コールフィールドが行方不明中の弟のホールデンの身を案じている。
-他人/The Stranger
→ベーブは戦死したヴィンセント(ホールデンの兄)のガールフレンドに戦死の状況を伝えに行く。
-ぼくはちょっとおかしい/I’m Crazy
→『ライ麦畑でつかまえて』の断片、のちに長篇に組み込まれる。
-マディソン・アヴェニューのはずれでのささいな抵抗/Slight Rebellion off Madison
→『ライ麦畑でつかまえて』の断片、のちに長篇に組み込まれる。
もちろんこれら5篇はサリンジャーがアメリカで書籍化をしなかった作品群ですが、『ライ麦畑でつかまえて』が気に入った方はこちらも読んでみるとよいのではないでしょうか。
⇨『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』(金原瑞人訳)
結論: サリンジャーを最初に読むなら『ナイン・ストーリーズ』
改めて結論を申し上げると、まず読むべきサリンジャーの一冊目は短篇集『ナイン・ストーリーズ』で、中でもグラス家に関連した「バナナフィッシュにうってつけの日」などの短篇作品です。
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②『フラニーとズーイ』(「フラニー」「ズーイ」)
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③『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア―序章―』(「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」「シーモア―序章―」)
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④『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』(「ハプワース16、1924年」)
このような流れでグラス家に関連した作品を追っていくことで一つの長篇のような物語を楽しむことができます。サリンジャーを読む順番としてぜひ参考にしてみてください。
*主要翻訳が複数ある作品タイトルは本記事では以下の翻訳に準拠
・The Catcher in the Rye: 『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳
・Nine Stories収録作品: 『ナイン・ストーリーズ』野崎孝訳
・Franny and Zooey収録作品: 『フラニーとズーイ』村上春樹訳
・金原瑞人訳『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』『彼女の思い出/逆さまの森』に収録された作品はそちらを参照
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