新しい読書の形に出会ってしまった。
耳で聴く読書「オーディブル」がとてもいい、という話ではもちろんない。
9月6日、かねてから予定されていた村上春樹の新しいオーディブル化作品がリリースされた。その作品は長編小説『スプートニクの恋人』で、村上春樹の長編にしては実質中編程度のやや短めのもので、代表作と言われる作品とは言い難い(もちろん『スプートニクの恋人』が一番好きという人も一定数いるだろうが)。
しかし結論を言えば、そんな『スプートニクの恋人』のオーディブル版がこれまで聴いてきたオーディブル史上、自分的に最高傑作のひとつだったという話。
オーディブルの聴き方というのは大きく分けて二つあると思う。
①ラジオ感覚でゆる〜く聴く「流し聴き」
②何かしつつもある程度意識を傾けて聴く「ながら聴き」
もちろん僕もそう思っていたし、そういう聴き方である程度便利だし満足していた。本を読むことに慣れている人は、最初は耳だけで聴く読書というのは、けっこう難しい。集中して文脈に乗れればある程度頭に入ってくるのだが、聴きながらこなす行動が少しでも意識をそらされてしまうものだと、気づけば内容が頭から抜けてしまう。なので皿洗いや通勤中などの間に「流し聴き」をしたり、寝る前にベッドに入ってある程度集中して寝「ながら聴き」をして、僕の感想としては「オーディブルって理解できる内容はがんばっても7~8割だけど、活用方法によっては便利といえば便利だな」というものだった。
今回の『スプートニクの恋人』も最初はそんな感じで「流し聴き」や「ながら聴き」をしていて、それでも素敵な朗読の声とリズムに心地良さを覚えていた。しかしあるとき、これまでになかった体感がを僕のもとにやってきた。そのときいつものようにデスクの整理をしながらオーディブルを聴いていたのだが、いつまでたってもデスクが片付かない。いつしか作業の手を止めて朗読に全神経を集中していた自分に気づく。それどころかデスクに背を向け、本棚から紙の本の『スプートニクの恋人』を取り出して開いていた。
今読まれている箇所を探し、一言一句聞き逃すまいと、本の上の文字を目で追いながらひたすら朗読に耳を傾けた。文字が身体に、心に沁みこんでくる。漠然とではあるが、「ああそうか、これがオーディブルの本当の楽しみ方なんだ」と僕はそのとき思った。
それが新しい(少なくとも僕にとっては新しい)三つ目のオーディブルの聴き方、
③完全に朗読を聴くことに集中する(そして時には原本のページを開いてしまう)「没入聴き」
である。
オーディブルは本来、「〜ながら聴き」ができるという効率性が魅力だとされている。もちろん運転や移動、家事、その他さまざまな作業をするかたわら、オーディブルを聴いて普通の読書と同じほどの理解ができるのであれば、それは素晴らしい効率性だ。時間が増えたかのような夢のような体験になるだろう。しかし何かをしながら耳で聞いただけで本の内容を深く理解するには、かなりの慣れが必要だと思う。もちろん訓練次第で理解力を向上させることはできるだろうが、しばらくオーディブルを愛用している僕でも、理解度は良くて70~80%程度のように思う。
もちろん多くのビジネス書や自己啓発本などに見られる「できる限り速く大まかな内容が頭に入っていればいい」という種類の本もある。しかし、自分が求めている小説の楽しみは、効率的に速く読みたいということだろうか、と考えると、その答えは「否、いかにその物語と共に特別な体験ができるかだ」と言える。
前置きがかなり長くなってしまったが、新しいオーディブルの楽しみ、ひいては全く新しい読書の形を教えてくれた、宮﨑あおい朗読による村上春樹『スプートニクの恋人』は、何が特別だったのだろう。本作品が気になっている方や、オーディブルって実際どうなの?と思っている方にも参考にしていただきたい。
「宮﨑あおい」でしかない「朗読者・宮﨑あおい」の声
オーディブルにとって最も重要なのは、誰が読むかである。作品によって熟練の朗読者から、有名な若手俳優までさまざまだ。今回の『スプートニクの恋人』は、女優の宮﨑あおいである。テレビドラマや映画、CMなどにおいて2000年代頃から目覚ましい活躍を経て、現在でも知名度の高い女優といえる。ご存じの方は、声を聞けば「宮﨑あおいだ」とわかるほどには個性的な声の持ち主だと思う。映像の分野で活躍する役者がオーディブルの朗読に挑戦するときに、多く聞く悩みが「動きや表情での演技ができない」点だという。そしてどちらかと言えば平坦な声で淡々と朗読する人が多い印象だ。
『スプートニクの恋人』での宮﨑あおいはどうか。これはもう第一声から、これまで聞いてきた宮﨑あおいの声だ。しかしこれが、文句ないほどにオーディブル向けであるし、『スプートニクの恋人』向けである。「冷静を優しさで包んだような声」とでも表現しようか。いや、より適切な言葉を選ぶなら、「宮﨑あおいの声」ということに他ならない。
もちろん朗読者の声は個人によって好き嫌いがあるものだろう。ではより客観的に宮﨑あおいの朗読の魅力を伝えたい。作品の世界観を大事にするために、なるべく平坦な声で読もうとしているのだけど、ところどころで可愛らしさや感情が溢れてきてしまう、それでもそれを抑えようとしているという絶妙さが感じ取れる。それがたまらない。
「冷静な語り口」と「情感を込めた演技」のバランスが絶妙
前項でも少し述べたが、この宮﨑あおいによる『スプートニクの恋人』の朗読の魅力の一つが、基本は中立を保って淡々と読むが、時に必要最低限の演技を含めるという点だ。オーディブルに慣れてくるとわかるが、朗読に読み手の演技が入りすぎると聴き手は冷めてしまう。耳触りの良さや聴き手が抱いていた世界観の想像が損なわれてしまうおそれがある。一方で、平坦すぎる朗読も眠くなってしまう。ここのバランスがオーディブルの完成度を高める重要なポイントの一つだろう。
では具体的に宮﨑あおいによる『スプートニクの恋人』はどうか。出だしは特に意識してか、平坦な口調で読まれていく。主な登場人物は「ぼく」「すみれ」「ミュウ」の三人だが、それぞれの会話文を聞けば誰の言葉かすぐにわかる。派手な演技無しで、である。これは本当に聴いていて心地が良い。村上春樹らしい中立的な主人公の「ぼく」、自由奔放さが垣間見える「すみれ」、大人びた「ミュウ」。それぞれの演じ分けができているのに、鼻につかない。
しかしこれが一本調子に続くわけではない。たとえば、第1章の「すみれ」と第16章の「すみれ」の話し方はけっこう違う。女優が慣れない朗読によって一つの型が保ててない、というわけでない。キャラクターに愛着が湧いてきている様子がわかるし、「すみれ」の変化として読めるのも面白い。5章あたりの「ぼく」との会話では、なにやら可愛さを見せている「すみれ」もまた素敵だ。
また、随所で感情の凹凸も見られるところが臨場感があっていい。第11章の終盤、すみれの夢についての記述の箇所で、冷静を保ちつつ、それでも腹に込み上げてくる熱さのようなものを感じずにはいられない。個人的にその迫力は圧巻だった。反対に、第12章でのミュウの観覧車の話では、冷徹なまでの語りが続く。
注意しなければ、このあたりも淡々とした朗読に聞こえるかもしれない。しかし本を開きながら朗読に「没入聴き」していたからこそ、拾い上げることができた感覚だったのかもしれない。
原作への敬意と真摯な向き合い方
『スプートニクの恋人』の朗読を聴いて、終始心地良さを感じた。言い換えれば、マイナスな点が目につかなかった。朗読の声自体や読み方が素敵だった、というのは前述の通りだ。しかしなぜだろう、もっと根本的なところにその要因がある気がした。そして本作についての宮﨑あおいへのインタビュー動画を見て、その心地良い朗読の正体がわかった。その動画は、宮﨑あおいが楽しく読み、村上春樹の文章をとても大切にしていることがわかる内容だった。たとえば、オリジナルの文章の句読点を大事にしつつも、実際の朗読の聴きやすさとの兼ね合いを考えたり、各登場人物をしっかり理解しようとする姿勢など、村上春樹の作品を読んできた僕としてももちろん悪い気はしない。
ただでさえ9時間超えの朗読とそのための前準備に労力がかかっているうえに、これだけ真剣に原作や作家への敬意を払っているのだから、これほどのオーディブル作品になったのもうなずける。
『スプートニクの恋人』という小説自体の文章技術の高さ
聴いていて心地良いと感じたのは、朗読者によるものだけでなく、当然『スプートニクの恋人』という小説自体が受け取って気持ちの良い文体で書かれているからだ。文章を読んで(聴いて)心地よいと思える作家が日本にどれほどいるだろう。1979年に『風の歌を聴け』でデビューを果たした村上春樹の文章は、その軽やかさによって、当時の国内の論壇に大きな衝撃を与えた。それで非難されることもあったが、確実に多くのファンを虜にしてきた要素の一つだろう。
この『スプートニクの恋人』は、1999年に出版された村上春樹の9作目の長編である。村上春樹はこの作品を執筆するにあたって、自分が武器にしてきたある種の文体を出し尽くしてしまおうという決意があったと語っている。つまりそれまで培ってきた村上春樹の文章技術の結集的な作品なのである。
また、この聴きやすさ(読みやすさ)は、「『スプートニクの恋人』は楽しんで書いた小説の最右翼に位置するでないか」(『村上春樹全作品 1990-2000 ②』.「解題」より)という著者の言葉と無関係ではないだろう。
以上が僕が感じた、宮﨑あおい朗読によるオーディブル作品・村上春樹『スプートニクの恋人』の魅力だ。そしてオーディブルを非効率的に活用したからこそ生まれた、新しく深い読書体験の記録だ。
村上春樹愛読者も、宮﨑あおいファンも、オーディブルが気になっている方も、ぜひおすすめしたい一作だ。
→オーディブル版『スプートニクの恋人』のページはこちら
オーディブル版『スプートニクの恋人』を聴くなら、単品購入?月額聴き放題入会?
すでにオーディブル会員の方は、聴き放題対象のため、いますぐに『スプートニクの恋人』を聴くことができる。一方でオーディブル初心者の場合、オーディブルの仕組み自体よくわからないという方もいるだろう。オーディブル作品を聴きたい場合、方法は二つある。
①単品購入する
②月額聴き放題会員になる
①単品購入する
オーディブル会員にならずとも、もちろん『スプートニクの恋人』は聴ける。しかし普通の書籍とは異なり、3,500円と高価。本作でいえば、9時間まるごとの朗読という身の毛もよだつ労力と、その朗読のための準備にかなりの時間がかかっていることを考慮すれば、このくらいの価格感になるのは当然かもしれない。そして一度購入してしまえば、半永久的に聴くことができる。ただし、単品購入する場合でも、始めての方向けの無料体験プランを活用することで割引価格で単品購入することができるので、次項で詳しく説明したい。
②月額聴き放題会員になる
多くの人はこの月額聴き放題プランを活用していると想像する。なぜなら高価なオーディブルにあっても、聴き放題会員は圧倒的にお得だからだ。基本として、聴き放題サービスでは、月額1,500円で約20万点以上の作品が楽しめる。例えば週1作品聴くとして、『スプートニクの恋人』のような小説を月に4冊聴いたら、単品購入した場合は3,500円×4=14,000円かかる。それが1,500円というのは、解約したら聴くことができないという点を考慮しても、かなりお得だということがわかると思う。
オーディブルは未知なものという体感の方が多いだろうし、実際に自分には合わないと感じる人も少なくないだろう。そのため、初入会の方は最初の1ヶ月が無料となっている(時期によっては2~3ヶ月無料なことも)。そしてその無料期間中に退会することができる。お試しのハードルはかなり低い。
また会員だと、単品購入する場合(退会した後も引き続きこの作品を聴きたいという場合など)、定価の30%割引きで買うことができる。3,500円のオーディブルなら、会員中に購入すれば2,450円になる。
なので前項でも述べたように、単品購入する場合でも、一度無料体験に登録し、会員価格で買ってから退会する、という形もとれるわけだ。
結論、『スプートニクの恋人』を聴くなら聴き放題に入会(無料期間中に退会も可)
『スプートニクの恋人』だけを聴きたい方も、他の作品も楽しみたい方も、まずは無料体験として聴き放題会員に登録することをおすすめする。そして課金が始まる前に、スマホのスケジュールに、無料期間終了直後の時期に「解約検討」という予定を入れておこう。そうすれば無料体験だけして忘れずに退会できるし、気に入ってしまったならそのまま継続すればいい。
もちろんオーディブルは他にも魅力的な作品がたくさん
僕が無料体験でオーディブル会員を退会しなかったのは、かなりの数聴きたい作品があったからだ。村上春樹作品はすでに30冊以上がオーディブル化されていて、その朗読者もそうそうたるラインナップだ。特に『ノルウェイの森』を読む妻夫木聡や『騎士団長殺し』を読む高橋一生の朗読は、それだけでオーディブルを試す価値がある。多部未華子朗読の短編『カンガルー日和』もいい。他にも有名作家、芥川賞受賞作、本屋大賞受賞作、最新のベストセラーなど「これもいいの?」と思ってしまうほどの作品が待ち受けている。
村上春樹作品については、全作品がオーディブル化してしまうのではないか、という規模でプロジェクトが進んでいる。今後の作品と朗読者の組み合わせの発表なども楽しみだ。
→オーディブル版『スプートニクの恋人』のページはこちら
▽以下、村上春樹作品のオーディブル作品を全て網羅しているので、こちらも参考まで。▽
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